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【ウマ娘】アイネスフウジン元ネタ解説

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【ウマ娘】新衣装アイネスフウジン実装

2023年1月30日に[MELTY GIFT]アイネスフウジンと、[マーガレット・ラッテ]メジロライアンが実装されました。今回のバレンタインも両方が強キャラという、2周年を目前にして悩ましい性能で実装してきましたね。

アイネスフウジン(ウマ娘)のプロフィール

ガチャを引くかはギリギリまで悩むとして、さっそく、ウマ娘のアイネスフウジンがどういうウマ娘なのか紹介していきます。

名前:アイネスフウジン(CV:長江里加)
誕生日:4月10日
身長:167cm
体重:微増(ちょっと食べすぎた?)
スリーサイズ:B88・W58・H84
靴のサイズ:左24.0cm 右24.5cm
学年:高等部
所属寮:美浦寮
気さくな長女気質のウマ娘。飛び出しの速さに定評があり、責任感が強い。妹2人(双子)がいるため、家計の足しにとアルバイトしているが、本人は重荷に思っている風もない。母親からもらったトレセン学園でのチャンスを全力で楽しみ、結果を出したいと思っている。

サンバイザーサイドテール、鼻先にそばかすが特徴のウマ娘。「はろはろー」「よろよろー」や「◯◯なの」という言葉遣いにも特徴があります。

裕福とはいえない一般家庭の出であり、トレーニング後や週末にはアルバイトをこなし家計の手助けをしている苦学生ですが、本人は学生の本分であるトレーニング・勉強とバイトの両立を苦にすることもなく、前向きに明るく毎日を送る家族思いのウマ娘です。

苦学生という設定

上記の通りあまり裕福ではない家計を支える、しっかり者のお姉ちゃんですが、実在馬のアイネスフウジンの生まれた中村牧場では、1968年の菊花賞優勝・年度代表馬となったアサカオーを最後に重賞勝ちから遠ざかるなど、生産馬の成績は落ち込んで一時は倒産間際の状態に陥ったことがあります。

無借金経営ではありましたが、そのため種付け料の安い馬しか用いることができず、あまり活躍できる馬が生産できなかったようです。

そんな中、日高軽種馬農業協同組合(通称:農協)がテスコボーイという種牡馬を導入しました。農協の馬は種付け料が安いわりに活躍馬が出ていて、倍率は高かったが、牧場主の中村吉兵衛氏はみごと当選。こうしてムツミパールに良血のテスコボーイが交配され、アイネスフウジンの母テスコパールが誕生します。

その後、アイネスフウジンの活躍もあり、牧場経営を続けることができたようです。

身体の弱い母親がいる

アイネスフウジンの母テスコパールは、2歳の春に激しい下痢に襲われ獣医師からは助かる見込みがないと診断されたことがあります。

それを聞いた牧場主の中村吉兵衛氏は、「どうせダメなもんなら、うまいものを食わせて死なせてやりたい」と考えるようになり、獣医師の反対を押し切って牧場に連れ戻し、診療所で制限された水や飼料を好きなだけテスコパールに与えるようにしました。

ただ水は生では飲ませられないので、電気湯沸かし器のない時代に一晩中火で煮沸してから冷ました湯を作り続け、それを与えていたということから、テスコパールに対する並々ならぬ愛情がうかがえます。

そんな献身的なお世話もあってか、テスコパールの体調が回復し、3歳秋には下痢も解消し、他馬と変わりない生活を送れるようになりました。

馬齢的にも競走馬としてデビューこそできませんでしたが、繁殖牝馬となり16番仔まで産んだのだからすごいですね。

そして7番仔である黒鹿毛の牡馬・テスコホーク(幼名)は、馬主となる小林正明に購入され、アイネスフウジンと命名されました。

年の離れた2人の双子の妹がいる

ウマ娘のアイネスフウジンには「スーちゃん」「ルーちゃん」という双子の妹がおりますが、実在馬のアイネスフウジンにも半弟の、11・12番仔にリアルポルクス・リアルカストールという双子がいました。

双子というとアドマイヤベガの例が有名ですが、サラブレッドを双子を揃って産ませることは、栄養や成長の面で2頭とも無事に生まれ育つ確率は限りなく低いため、どちらか片方(あるいは両方)を堕ろしてしまうのが一般的です。

しかし「スーちゃん」「ルーちゃん」が双子と判明したのはアイネスフウジンがダービーを勝った後で、すでに堕胎処置が難しい状態になっていたため、そのまま出産することになりました。ある意味アイネスフウジンが双子を守った、と考えるのは考えすぎでしょうか。

世代としてはナリタブライアンらと同期の94世代になりますが、やはりどちらもデビューが3歳6月と遅くなってしまいました。この時期のデビューですと、新馬・未勝利馬が出られるレースが残り少なく、ポルクスは芝、カストールはダートを走っていずれも2戦0勝(全て掲示板外)で、出走できるレースがなくなってしまいました。

しかし結果は振るわなかったですが、双子が二頭とも堕ろされることなく生まれ、二頭とも競走馬としてデビュー(無事成長)するという例は世界的に見ても非常に珍しいケースで、その確率は1000分の1ともいわれています。

トレーナーとの出会い

ウマ娘のアイネスフウジンとトレーナーの出会いは、ある馬娘が走れなくなるほどの故障を負い、トレセン学園を去る際に「貴方なんかと、出会わなければよかった」と言われ、トレーナーとしての自信を喪失しウマ娘のスカウトに消極的になっているところに、アイネスフウジンから仮トレーナーとして契約するところから始まります。

 

実在馬のアイネスフウジンの主戦騎手である、中野騎手は交通事故を引き起こしたことで、厩舎サイドをはじめとした競馬界から干されてしまい、騎乗できる馬がほとんどいない状況でした。また減量に苦しんでおり引退も考えるようになりましたが、アイネスフウジンを管理する加藤調教師から声をかけられ、アイネスフウジンに騎乗することになります。

このように騎手としての道が危ぶまれたときに、アイネスフウジンと出会うことで、道が拓けるきっかけとなった点がモチーフになっていると考えられます。

実在馬の情報

では実在馬としてのアイネスフウジンを見ていきましょう。

登録名:アイネスフウジン(Ines Fujin)
性別:牡馬
毛色:黒鹿毛
誕生日:1987年4月10日
登録日:1989年5月10日
抹消日:1990年9月5日

 

戦績

生涯成績:8戦4勝
獲得賞金:2億4440万9200円
主な勝ち鞍
・GI:朝日杯3歳S-1989年
・GI:東京優駿-1990年
・GIII:共同通信杯4歳S-1990年
表彰
・JRA賞最優秀3歳牡馬(1989年)
・JRA賞最優秀4歳牡馬(1990年)

不良馬場が響いた弥生賞の4着が最低着順となり、弥生賞以外のレースは全て連対。

略歴

1989年9月10日、中山競馬場の新馬戦(芝1600m)で中野栄治騎手の騎乗でデビューします。

2番人気に支持されて2着となった次走も同じ条件のレースで再び2着に敗れましたが、続く10月22日の3戦目では、序盤から先頭に躍り出ると1-3/4馬身差で押し切って初勝利を飾りました。

昇級戦となる次走は、12月3日の葉牡丹賞を予定していたが、中野騎手から朝日杯3歳ステークス(GI)へ出走を提案されました。加藤調教師は暮れのホープフルステークス(当時はオープン競走)も視野に入れてましたが、同世代で有力馬が集まる朝日杯への出走が決まりました。

不滅のレコードタイを記録

レースではこれまで3連勝中の牝馬サクラサエズリがハナを切る展開。アイネスフウジンはこれに並びかけて位置を上げ、2頭が先頭に立つ形となりました。

2頭の逃げは、第3コーナー付近にて後続に5馬身のリード、前半の1000メートルを56.9秒で通過する超ハイペースとなり、前の2頭には厳しい展開となりました。

しかし最終コーナーで仕掛けるサクラサエズリに対して、アイネスフウジンはまだ手綱を持ったままで、サクラサエズリに離されることなく追走していきます。

鞍上の中野騎手が、直線に入ったところで後続の追い上げ無いことを確認すると、残り150メートル地点でサクラサエズリを突き放して単独先頭に立ち、2馬身半差をつけ快勝。走破タイムは、1976年にマルゼンスキー同じ朝日杯3歳ステークスで記録し、「不滅」とも称された3歳レコードタイとなる1分34秒4を記録しました。

年末のJRA賞選考では、満票172のうち112票を集めてJRA賞最優秀3歳牡馬を受賞。デビューからわずか4ヶ月で3歳馬の頂点に立ったスピードはまさに風神の名にふさわしい活躍でした。

メジロライアンとの対決

明けて始動戦となる共同通信杯4歳ステークス(GIII)では、雨が降る中、スタートから先頭に立ち、独走するとそのまま後方に3馬身差の圧勝で、クラシック戦線への展望が開けるスタートを切れました。

しかし続く弥生賞では1.9倍の1番人気に支持されるも、不良馬場を嫌った中野騎手が馬場状態の良い外側でレースを運んだが、最期の直線で内からメジロライアンにかわされ、さらにツルマルミマタオーとホワイトストーンにもかわされ4着に敗れました。

皐月賞ではアイネスフウジンは1番人気に推されましたが、単勝オッズは4.1倍となっており、弥生賞で敗れたメジロライアンが5.0倍の2番人気、さらにきさらぎ賞など5連勝で乗り込んできたハイセイコー産駒・皐月賞親子制覇の期待がかかるハクタイセイが5.6倍と混戦模様から、「三強」と目されていました。

レースでは発走直後に隣のホワイトストーンが内に斜行したことで、内隣の1番ワイルドファイアーと挟まれる不利を受け、十分なスタートダッシュができませんでした

捨て身の逃げを宣言していたフタバアサカゼがハナに立ち、アイネスフウジンは二番手で追走しますが、1000mを超えたあたりからペースが遅くなり、結局残り600メートル地点で先頭に立ってしまうと、脚を溜めることができず直線では伸びがなく、中団7番手からアイネスフウジンを目標にしていたハクタイセイに差し切られ、クビ差の2着となってしまいます。

レースは終始アイネスフウジンに不利な展開でしたが、そんな状況でも勝ち馬からクビ差、9番手から追い込んできたメジロライアンを1-3/4馬身差でしのぎ切ったのは負けて強しな競馬でした。

しかし、この敗戦で中野騎手の降板という意見も出ましたが、加藤調教師は「中野のせいではない。ダービーでも乗せる!」と庇ったエピソードがあります。

世界レコードの観客数・日本ダービー

皐月賞で惜敗を喫したアイネスフウジンは、5月27日の日本ダービー(GI)に出走。

同じく皐月賞の上位を競ったメジロライアンとハクタイセイが単勝オッズ3倍台の1・2番人気を占めたのに対し、アイネスフウジンは弥生賞・皐月賞での連敗により5.3倍の3番人気の評価となりました。

中野騎手は「もし馬券が買えるなら、借金してでもアイネスフウジンを1番人気にしてやりたい」とコメントしています。(実際には騎手はじめ競馬関係者は馬券を購入することは出来ない)

レースでは5枠12番からスタートすると、内枠の馬を制してハナを奪い1000メートルを59.8秒で通過するハイペースを刻み続けました。

向こう正面では馬場状態の悪い内側を空けて走行していたため、最終コーナーに差し掛かると、馬場の内側からハクタイセイとカムイフジが仕掛けてきたため、再加速して先頭で通過すると内ラチ沿いに進路を取ってラストスパートをかけていきます。

最終直線では先行馬勢を突き放し、外から追い上げてきたメジロライアンやホワイトストーン、ツルマルミマタオーらの追撃も退けて、1-1/4の差でゴールに飛び込みました。

走破タイム2分25秒3は、1988年のサクラチヨノオーが記録した東京優駿のレコードタイムを1秒更新する勝利であり、1975年優勝のカブラヤオー以来となる逃げ切り勝利を飾りました。

東京都府中市の総人口に匹敵する19万6517人が来場し、今後破られることはまずないであろう観客動員の世界記録になっています。
ちなみに、オグリキャップの引退レースである、有馬記念当日の中山競馬場の入場者数が177,779名を2万人近く超える動員数と考えると、いかにすごいレースであったかがうかがえます。
個のアイネスフウジンのダービーが、オグリキャップから始まった第二次競馬ブームのピークと考える人も多いです。

新たな競馬文化の誕生

当時まだスタンド前でウイニングランを行う文化ははなく、レースを終えた馬は向こう正面から退出するのが一般的でした。

このダービーでも他の馬は向こう正面から退出していくのに対して、アイネスフウジンは入線直後に躓くなど余力が尽き、スタンド前から退出することとなりました。

その結果レコード勝利を飾った馬と騎手を19万人の観客が迎え入れるウイニングランのような形となり、観客の中から手拍子に合わせて「ナ・カ・ノ!ナ・カ・ノ!」と後に「ナカノ・コール」と呼ばれた歓声が上がり始めました

ゲーム版のウマ娘では、アイネスフウジンがダービーを勝利すると「ア・イ・ネス!ア・イ・ネス!」という「アイネスコール」にアレンジされています。

こうして勝利した馬や騎手をコールで称える文化が生まれたほか、主催するJRAも大レースでの入場制限を強化するきっかけとなり、同時にレース前日から競馬場門に並ぶ「徹夜組」の出現や発走前のファンファーレに合わせた手拍子をする文化も誕生しています。

屈腱炎と引退

アイネスフウジンは、日本ダービーの表彰式を終えて馬房に戻ると、左前脚の腫れが見つかり、後に左前脚の屈腱炎と診断され、長期休養を余儀なくされます。

夏以降は温泉施設で療養などを行って復帰を目指したが、美浦に帰厩して8月30日の初時計後に再び足元に不安が出たことから現役引退を発表されました。

以降アイネスフウジンは種牡馬となりますが、中々活躍する産駒に恵まれず一時は種牡馬引退が検討されましたが、産駒の一頭であるファストフレンドが帝王賞と東京大賞典(ともにGI)を制し大活躍したことで、再び北海道に戻され種付け件数が一気に増えました。

恩を返す馬

アイネスフウジンが朝日杯3歳ステークスに出走した日、生産者の中村吉兵衛氏は病気で入院していました。当時はまさか勝てるとは思っていなかったようで、病院のベッドで優勝する様子を見てポカーン状態だったそうです。

中村吉兵衛氏は92歳となり、生産者は引退していましたが、そんな生産者へ母の命を救ってくれた恩返しとばかりに、アサカオー以来22年ぶりとなる生産馬のクラシック挑戦・制覇を贈りました。

また自分を産んでくれた母には、ダービーの勝利によって、双子となる弟たちから関係者の注意を自分に引き付け無事出産させることで、そして父親には種牡馬として再び脚光が浴びるようになるなど、こちらも恩を返すような形になってます。

父親であるシーホークは老齢のため種牡馬のシンジケートが解散されており、老後を見届ける意味合いの強い「シーホーク愛好会」によって小規模に種牡馬として活動していましたが、老齢から種牡馬引退も考えられていた時に、アイネスフウジンをはじめ、ウィナーズサークル(1989年の東京優駿を勝利)、マルタカタイソン(1990年の目黒記念(GII)を勝利)など、同時期に突然活躍馬が続出したことで、シーホークとの配合を希望する生産者が増加しました。

最初は多くの繁殖牝馬を相手にして健康を害するリスクを恐れ、全ての配合希望を断っていましたが、あまりにも配合を求める生産者が後を絶たなかったため、1年限りの種付け権利をスタリオン・ノミネーションセールへ出品した結果、それまで50万円程度だった種付け料が505万円という価格で落札される前代未聞の事態となりました。

そして自分を愛して育ててくれた中野騎手と調教師の加藤師にも、開業19年目にして初のGI制覇およびクラシック制覇をすることで恩を返しています。

 

いかがでしたでしょうか?わずか2年の現役生活でしたが、非常に多くのエピソードがあり、第二次競馬ブームの立役者としてふさわしい名馬といえる馬だと思います。またゲームの育成でも隠しストーリーが多々あり読みごたえがあるので、お迎えしている方はぜひ見てください。

 

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