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【ウマ娘】ミスターシービー元ネタ解説

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【ウマ娘】ミスターシービー実装

2023年2月24日、ウマ娘は2周年を迎えますが、同時に[Clear Bliss]ミスターシービーが実装となりました。

ミスターシービー(ウマ娘)のプロフィール

2021年8月20日に実装となったエイシンフラッシュの育成シナリオで3Dモデル付きで初登場以来、約1年半が経過しての実装となります。待ち望んでいた方も多いと思いますが、性能も合わせて非常に人気の出ているウマ娘のミスターシービーがどういうウマ娘なのか紹介していきます。

名前:ミスターシービー(CV:天海由梨奈
誕生日:4月7日
身長:166cm
体重:増減なし
スリーサイズ:B84・W55・H80
靴のサイズ:左右ともに25cm
学年:高等部
所属寮:一人暮らし
自由なレースの世界を愛するウマ娘。
彼女の醸す常識に縛られない雰囲気は、不思議なカリスマ性がある。
──と、一見気ままな自由人に見えるがそれは、納得が出来ないことは絶対にしない、そんな頑固さがあるからで……?実は人一倍不器用なウマ娘なのかもしれない。

普段は泰然自若かつ飄々と振る舞い、雨の中でも平気で散歩に行きシンボリルドルフを困惑させたり、屋上で寛いでいる後輩たちの前でハンバーガーを食べるなど自由奔放な様子が描かれている。
このハンバーガーの件をはじめ、たい焼きや卵かけご飯などアプリ版では何かと食べ物に関するイベントが多い。

その一方で、トゥインクルシリーズを退く方針をとったマルゼンスキーのことを憂う、と言うより半ばワガママに近い感情で引き止めようともしていた。
自由を好むがその反面、頑固で不器用な性格でもあり、納得できないことを心にしまっておけず、むしろ真正面からぶつかりにいってしまう。このことについては本人も自覚しており、第三者とのトラブルの種になってしまうことは気にしている(もっとも、それを直す気はなさそうだが)。

スキル名の元ネタ

スキル名にもそれぞれ元ネタがある。

固有スキル「叙情、旅路の果てに」

歌人・劇作家であり、競馬をこよなく愛した寺山修司氏の作品からきていると思われる。

なぜ寺山氏なのか?というと寺山氏はミスターシービーの主戦騎手である吉永正人騎手を贔屓にしており、報知新聞の競馬面予想コラム『風の吹くまゝ』の最終回は1983年皐月賞の当日で、寺山氏は『勝つのはミスターシービー』と記していた

また寺山氏は書籍『旅路の果て』という競馬エッセイを出版しており、寺山氏はトウショウボーイを“叙事詩”、テンポイントを“抒情詩”と対比し、彼の死後、その一説を引用して「シンボリルドルフは叙事詩、ミスターシービーは叙情詩」と言われていた。

覚醒スキルの「弾む大地」。これは菊花賞の実況杉本清氏の「大地が弾んでミスターシービーだ」が元ネタ

第4コーナーをカーブする!ミスターシービー先頭だ!
さあミスターシービー19年ぶりの三冠か!ミスターシービー19年ぶりの三冠か!
大地が、大地が弾んでミスターシービーだ!ミスターシービーだ!

なおこの「大地を弾ませて」というフレーズは2020年JRAカレンダーにもキャッチコピーとして掲載された。

王道無用、良血の異端児。
大地を弾ませて、19年ぶりの偉業。

覚醒スキル「天翔ける足取り」

ミスターシービーの父トウショウボーイは「天馬」と呼ばれ。JRAのヒーロー列伝No.13にも記述がある。

天馬、空をゆく。
天性のスピードと華麗を極めたフォーム。
翔ぶがごとくにゴールを駆け抜けるその姿は、
まさに”速さの象徴”だった。

この一節が元ネタと思われる。

キャラストのタイトル

前述の寺山修司氏の競馬エッセイ「競馬への望郷」や「旅路の果て」の一節が用いられている。

・第一話 お前は一体何者なのだ 「競馬への望郷」

・第二話 うしろには夢がない 「競馬への望郷」

・第三話 目をつぶると何もかもが見える 「旅路の果て」

また育成ストーリーにはファンレターに短歌を送ってくるファンの描写があるが、詩人、歌人、劇作家、シナリオライター、映画監督とマルチに活躍した寺山氏は短歌が出発点としており、今なおファンが多い。

勝負服のデザイン

勝負服は下半身は金色の装飾がついたベルトに、基調で裏地が緑のスリットの入ったパンタロンを履いており、靴はヒールというデザイン。実馬の手足の長いスタイルの良さを際立たせるようなデザインとなっている。

カラーリングは史実の馬主の勝負服(千明牧場。緑・黄山形・白袖)と同じで、とりわけチューブトップは緑地に黄山形となっている。

両親はトレーナーと担当ウマ娘

トレーナーと担当ウマ娘の結婚ネタは、二次創作でしか語られていなかったが、ミスターシービーの育成ストーリーにて、彼女の両親がトレーナーと担当ウマ娘だったと判明。公式がトレーナーと担当ウマ娘の結婚がありうると認めた瞬間といえる。

ウマ娘のミスターシービーによれば、父親がまだ新人トレーナーの頃に母親と出会い、初恋に落ちたそう。しかし母親の家族に猛反対され、半分駆け落ちの形で結婚したといいます。

このエピソードは実馬のミスターシービーの誕生にまつわる経緯が元ネタとなっています。

実馬のミスターシービーの母シービークインは、トウショウボーイの父・テスコボーイを交配することが予定されていたが、種付け権が確保できなかったため内国産馬でまだ種牡馬デビュー2年目で人気のなかった、トウショウボーイが候補に挙がった。

だがトウショウボーイが種牡馬入りしていた日高軽種馬農業協同組合(日高軽種馬農協)の規則で組合員の牧場の馬しか種付けできなかった

しかし重賞3勝のシービークインとの種付けはトウショウボーイ側にとっても大きなチャンスであった。何としても種付けさせたかった担当者は、なんと組合に黙って勝手に種付けしてしまった

その結果、シービークインとトウショウボーイの仔が宿る。

無事に生まれたその仔馬はやや小柄だが、母親似の美しい目と馬体に父親譲りの美しいフォーム、両馬からたぐいまれなスピードを受け継いだミスターシービーである。

エレベーターが少し苦手

「エレベーターが少し苦手」の方は生産牧場である千明牧場の経営元が華厳の滝にある観光用エレベーターの営業を行っていることが影響していると思われる。

なぜ苦手なのか?というと仕事だから・・・なのかな?

「歌舞伎が好きでよく観に行く」

その容姿が「歌舞伎町の女形のよう」と例えられたことに由来している。その容姿は、「流星の貴公子」テンポイント以来となる写真集が刊行されるほどであり、女性ファンの獲得にも繋がったとされているほどの美貌の持ち主であった。
また、ミスターシービーの大ファンであった寺山修司氏が、実現こそしなかったものの晩年には「歌舞伎をやりたい」と言っていた

実在馬の情報

では実在馬としてのミスターシービーを見ていきましょう。

登録名:ミスターシービー(Mr.C.B.)
性別:牡馬
毛色:栗毛
誕生日:1980年4月7日
登録日:1982年5月25日
抹消日:1985年10月17日

戦績

生涯成績:15戦8勝
獲得賞金:4億959万8100円

主な勝ち鞍

・八大競走:皐月賞-1983年
・八大競走:東京優駿-1983年
・八大競走:菊花賞-1983年
・GI:天皇賞(秋)-1984年
・重賞:共同通信杯4歳S-1983年
・重賞:弥生賞-1983年

表彰

・中央競馬クラシック三冠-1983年
・優駿賞年度代表馬-1983年
・最優秀4歳牡馬-1983年
・顕彰馬-1986年選出

略歴

ミスターシービーは1980年4月7日、母シービークインの預託先であった北海道浦河町の岡本牧場で生まれる。

父トウショウボーイのは500Kgを超す大型馬で産駒には腰が甘い馬が多かったが、シービーは腰がしっかりしており、450kgから460kg半ば牝馬に間違われるような比較的小柄な馬だった。また全身をバネのように使って走るから凄く乗りやすいと評され、「トウショウボーイの良いところだけを全てもらったような馬」と言われた。

シービーには幼名がなく、デビュー直前まで名前が決まらなかったが、生産者である千明牧場 (Chigira Bokujou) を代表する馬という意味が込められ、ミスターシービーと名付けられた。

先述の通り父トウショウボーイと母シービークインは新馬戦で対戦しており、さらに後にTTGの一角としてライバル関係となるグリーングラス(4着)も参戦していたため「伝説の新馬戦」のひとつとして有名である。

デビュー

1982年11月16日、東京競馬場・芝1600mでデビューを迎える。

鞍上は母の主戦騎手でもあった吉永正人騎手が務め、5馬身差で圧勝。2戦目も勝利を収めるが、3戦目となるひいらぎ賞ではウメノシンオーにクビ差で惜敗するも、年明けの共同通信杯で同馬に雪辱を晴らす。

クラシックへの挑戦

続く弥生賞も快勝すると、クラシック初戦・皐月賞を迎える。当日は降雨の中で、追い込み馬には不利とされる不良馬場の施行となった。

シービーは序盤こそ16-17番手の後方を進むが、向正面から先頭のカツラギエースを目掛けロングスパートをかけていく。最終コーナーではカツラギエースの直後に付けた。最後の直線に入ると早々に先頭に立ち、後続の追い込みをかわし皐月賞を制覇。

追込み馬不利という条件の中、早めに仕掛けたアドバンテージが功を奏した結果となり、鞍上の吉永騎手にとって初のクラシック制覇となる。

続く二冠目となる東京優駿。当時のレースはフルゲートが20頭を超えるほど多数の馬が出走することがあり、特にダービーともなるとポジション争いが厳しく「第1コーナーを10番手以内で回らなければ勝てない」とされた「ダービーポジション」というジンクスがあったが、シービーは出遅れて最後方からのスタートとなる。

道中は先頭から20馬身程も離れた17番手となってしまい、「これはダメか・・・」とファンの間にもあきらめムードが漂った時、向正面出口から徐々に進出すると、第3コーナー出口の地点では先頭から6番手の位置まで押し上げていく

最終コーナーでは内から遮光してきたタケノヒエンを回避し、外のキクノフラッシュと衝突するもそれを弾き飛ばして、体勢を立て直して先行勢を追走すると、内で粘るビンゴカンタを一気に交わし、そのままゴールまで駆け抜けて1位で入線した。マクっていく。

そして直線半ばで先頭に立つと、そこから堂々と押し切ってみせ、二冠目を達成する。

このダービーは入選後に審議が行われ、ミスターシービーの1着に変更はないものの、吉永騎手は優勝トロフィーをはく奪されるという処分が下された。

ミスターシービーが3コーナーで斜行をしたことによるもので、「ミスターシービーを失格にするべきだ」という声が上がったが、吉永騎手はタケノヒエンを回避しなければ落馬していただろうと語っており、緊急回避的な対処だったと考えると、優勝トロフィー取り消しは厳しすぎる処分ではないかという声もあった。

シンザン以来の三冠馬誕生

菊花賞を目指すため夏場を休養に充てるが、挫石を起こして蹄を痛めてしまう。さらに夏の暑さと痛みのストレスから夏風邪に罹るという踏んだり蹴ったりの状況。そのため前哨戦に予定していたセントライト記念を断念し、京都新聞杯に切り替える。

当日は単勝オッズ1.7倍の1番人気となるも、前走から12kg増と太め残りと最悪のコンディションでレースに臨むこととなる。このレースはカツラギエースの後塵を拝するが、カツラギエースから7馬身以上離されての4着と初めて連対を外してしまう。

しかし連対は外したが、ボロボロのコンディションと思われた中で入着と一定の走りを見せたことで、陣営はクラシック最終戦への手ごたえを感じ、本格的に調教を課していった。

そして迎えるクラシック最終戦・菊花賞。

施行される京都競馬場の坂は「ゆっくり上り、ゆっくり下れ」がセオリーといわれるが、先行馬を次々とかわしながら坂を上り、加速しながら下る常識外れのスパートで3馬身差の圧勝

京都の坂を一気に駆け抜ける前代未聞の勝ち方で、セントライト・シンザンに続く19年ぶりの、そして父内国産馬としては初の三冠を達成した。

2つの転機

古馬となった1984年。久々に誕生した三冠馬の始動戦を待ち望むファンが多かったが、シービーは蹄の調子が悪化し、始動戦となるAJCCを回避。長期休養を余儀なくされる。

この年はJRAのレースに大きな改変がなされ、グレード制の導入と距離体系の整備が行われた年でもあった。

それまでクラシックの5競走「桜花賞、皐月賞、オークス、日本ダービー、菊花賞」に古馬の天皇賞(春・秋)と有馬記念の3競走を加えた8つの競走を「八大競争」と特別視されていた。この8つと特に格の高い競争と位置付けられていたレースも含め、グレードが割り振られ、現在でもつかわれる「Gi・GII・GIII」と中央競馬のレースに格付けが行われた。

それと各レースの施行距離も見直されることになり、特に大きかったのがそれまで春秋とも3200mで行われていた天皇賞が、秋のみ2000mへと距離が短縮された。

シービーは天皇賞・秋に照準を定め、10月初旬に毎日王冠で復帰。

カツラギエースの2着に敗れたものの、長期休養明けとしては上々の出来。上がり3ハロン33秒7の末脚で万全の復帰をアピールした。

ちなみに「上がり3ハロン33秒7」というタイムは現代の競馬ではそこまで珍しいタイムではないけど、当時の芝の育成技術や調教設備がそこまで発達していないと考えると、現在の馬でも遜色ないようなタイムを出したシービーがいかに並外れた馬かがうかがえる。

そんな感じで完全復活を印象付けたシービーは予定通り天皇賞・秋へ臨む。

しかしレースが始まると、先頭から約20馬身の位置に置いていかれる形となってしまう。しかし焦るファンをしり目に、第3コーナーからスパートを掛け始めると直線では最後方大外から全馬を抜き去って優勝し四冠馬となった。

こうして三冠馬としての力を見せつけ健在をアピールしたシービーだったが、一つ下の世代から大きな壁が迫ってきていた。

その馬の名はシンボリルドルフ。天皇賞・秋の翌週に行われた菊花賞で、シービーに続くクラシック三冠を達成。

シービーが次走に選択したジャパンカップに同馬も出走を表明したため、日本競馬史上初めてとなる三冠馬同士の対戦が実現した。

ジャパンカップ当日は、ルドルフは菊花賞より中一週という強行軍、かつ初の古馬との対戦ということもあって、シービーが1番人気、ルドルフは4番人気という順となった。

しかしレースは終始逃げた10番人気のカツラギエースが押し切って優勝。日本勢として初めてのジャパンカップ制覇を果たした。ルドルフは3着に終わり、シービーは終始後方のまま10着と大敗を喫してしまう。

吉永騎手によると、「シービーは、バテて下がってくる先行馬を見たら行く気を出したのだが、さすがにジャパンカップではバテる馬がいなかった」と述べ、後に自身の騎乗ミスを口にしている。つまりやる気スイッチが入る展開ではなく、それを押すタイミングを失ったのが敗因とのこと。

それだけではなく、秋の復帰以降はシービーの動きが悪く、手綱をしごかないと動かなくなっていた。古馬になってズブくなってきたのか、本人(馬)しかわからない蹄の調子によるものかはわからないが、四冠馬として輝かしい栄光の先に何やら暗雲が立ち込めていた。

年末に迎えた有馬記念では、出走馬選定のファン投票で第1位に選出されたが、当日の単勝人気はシンボリルドルフに次ぐ2番人気となった。

スタート直後から吉永騎手が促してたが、やっと2頭をかわしただけで、スタンド前では逃げるカツラギエースからは15馬身後方の位置取りで進行。残り1000mで早めにスパートするも、インコースに突っ込んで前がふさがったため、早めに抜け出したシンボリルドルフ、さらに逃げ粘ったカツラギエースも捉えきれず3着に終わった。

3月31日の大阪杯から始動。ステートジャガーにハナ差競り負け2着。

続く天皇賞(春)ではシンボリルドルフとの三度目の対戦となった。この競走では松山の指示により新馬戦以来となる先行策を採る作戦だったが、実際は菊花賞と同じ二週目の坂で後方から一気にまくって出てしまい、直線でルドルフにかわされ、同馬から10馬身以上離された5着に終わってしまう。

その後脚部不安を生じて休養、夏に函館競馬場に入って調教を再開したものの、直後に骨膜炎を発症して復帰を断念。引退することを選択する。

翌1986年、四冠が評価される形で顕彰馬に選出。1984年に父トウショウボーイも選出されていたため、史上初の父子顕彰馬となった。

ちなみに父子顕彰馬となったのは歴代で4組あり、クモハタ・メイヂヒカリ、シンボリルドルフ・トウカイテイオー、ディープインパクト・ジェンティルドンナとなる。

このうち現役期間の最も古い顕彰馬はクモハタ・メイヂヒカリだが、初代顕彰馬のクモハタに対して、子のメイヂヒカリの顕彰馬選出が平成2年とかなり遅かったため、父子揃って顕彰馬となったのがトウショウボーイ・ミスターシービーが初である。

引退~種牡馬へ

引退後は6億円でシンジケートが組まれ種牡馬となり、1989年度の新種牡馬ランキングで1位を獲得した。

2年目にもシャコーグレイドがクラシック戦線で活躍すると、シービーの種牡馬としての人気は改めて高まり、種牡馬として上々の滑り出しだったが、同時に種付け料も価格が上がっていき、さらにバブル景気に煽られ2000万を超えるほどに高騰してしまった

交配権が2000万円ともなると、お値段以上の活躍できる馬など何頭も生まれるわけもなく、当然「あれ?思ったより活躍しないな」というどう考えても期待が先行しすぎた状態になっていたところ、海外から輸入されたトニービン、ブライアンズタイム、サンデーサイレンスの台頭が重なり、種牡馬としては苦戦する。

結局1994年にライバルであったルドルフの仔、トウカイテイオーと入れ替わる形でレックススタッドに移動。1999年に種牡馬を引退した。

種牡馬引退後は、功労馬として繋養されていた母シービークインの隣に放牧地が設けられた

ミスターシービーの代表産駒といえるシャコーグレイドは、ウマ娘2期で「シガーブレイド」という名前で登場したウマ娘の元ネタ

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