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【ウマ娘】シンコウウインディ元ネタ解説

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【ウマ娘】シンコウウインディ実装

2023年2月13日に[Wicked Punk]シンコウウインディが実装されました。2周年前最後のガチャ更新で初期のころからいたウインディちゃんが実装とはなかなかジュエルを貯めるヒマがありませんね。

シンコウウインディ(ウマ娘)のプロフィール

2周年に向けてジュエルを温存ずる方も多いと思いますが、さっそく、ウマ娘のシンコウウインディがどういうウマ娘なのか紹介していきます。

名前:シンコウウインディ(CV:高田憂希)
誕生日:4月14日
身長:152cm
体重:増減なし
スリーサイズ:B78・W59・H88
靴のサイズ:左右ともに22.5cm
学年:高等部
所属寮:美浦寮
噛み癖のある狼……ではなくウマ娘。イタズラ好きでヤンチャで、常に誰かに気にかけてもらわないと気が済まない。
噛みつくのはかまってほしいアピールなのだが、本人に全くその自覚はなく、ワイルド気取りである。
いつも「のだ!」「なのだ!」口調で話す。

史実競走馬の栗毛を反映した淡いブラウンのショートヘアーとギザ歯が特徴的なウマ娘

いい所のお嬢様の様で、幼少期は両親をはじめ周囲の人たちから蝶よ花よと育てられ、ウインディ自身もそれに喜びを感じながら日々を過ごしていたのだが、親しい人たちがいないコミュニティではそういうわけにもいかなかった。

次第に「凄い自分を褒めてくれない周囲の世界がおかしい」と思うようになり、「ならば自分からもっと目立ってやればいい」という気持ちに突き動かされるままに数々のいたずらや突飛な行動に走ってしまう。

普段はワルぶって周囲に被害を及ぼすことも多けれど、一線を越えて深刻な事態を引き起こしてしまった場合はすぐさま反省し、相手に謝罪するというこれまた子供らしい素直さと切り替えの早さを持っている。

いたずら大好き

ウインディちゃんのいたずらの中で代表的な落とし穴。ゲーム内でも落とし穴を掘るシーンが良く出てきますが、実在のシンコウウインディもゲートの中でスタートを待つあいだ、よく穴を掘っていたというエピソードが元ネタ。

嚙みつかれたモブウマ娘

育成シナリオ内のエキシビジョンレースにおいて、ウインディちゃんが噛み付いた相手。

噛みつかれても特に気を悪くしている素振りを見せず、逆にウインディちゃんが周囲から悪い注目を浴びてしまったことの方を心配するすごく性格の良い子。ウインディちゃんも「めちゃくちゃいいヤツ」と語っている。

モブウマ娘にしてはめずらしく「ヤマトマリン」という固有名称を持っており、実在のシンコウウインディの6戦目となる館山特別で噛みついたダイワオーシャンが元ネタと思われる。

地方の”新たな世代”

育成中のストーリー「チャンピオンズCにむけて」でダートレースの新たな世代として実在馬らしき馬に触れている。

これらの馬の元ネタはこちら

「船橋から来たヤツ」・・・アブクマポーロ

東京大賞典、帝王賞、さらには川崎記念を連覇し、ダートコースでは生涯を通して掲示板を外さなかった堅実派。NARグランプリの年度代表馬部門とサラブレッド系5歳上最優秀馬部門を2年連続で受賞した。

「栗毛の来訪者」・・・メイセイオペラ

水沢(岩手)競馬に所属し、 帝王賞、マイルCS南部杯をはじめ数々の地方重賞を勝利し、1999年フェブラリーステークスに勝った馬史上初めて、地方競馬所属馬が中央GIの勝利を成し遂げた。

ダートグレード競走で中央との交流競走が始まった時代、中央のホクトベガを筆頭としたダート勢は強く、やはり地方は中央に勝てないのか・・・と思われたときにアブクマポーロ、メイセイオペラが台頭。この2頭は互いにしのぎを削りながらも、当時の中央ダート勢を圧倒し、地方勢の絶対エースとして君臨した。1998~99年にかけて何度も同じレースを走り「AM対決」と呼ばれた。

砂の女王

同じく育成中のストーリーで「砂の女王」と異名をとるウマ娘が(文字だけで)登場します。

 

これは実際にも「砂の女王」と呼ばれたホクトベガが元ネタ

1993年のエリザベス女王杯(GI)、フラワーカップ(GIII)、1994年の札幌記念(GIII)を制し、一時期スランプに陥るもダート転向へ活路を見出し、交流重賞の初戦エンプレス杯(川崎)では18馬身差で圧勝

その後交流重賞10連勝を達成、GI昇格前となる1996年のフェブラリーステークス(GII)を制覇するなど、なみいる牡馬をものともせずダートでは無類の強さを誇った。

時はバブル崩壊後の苦しい時代だったが、ホクトベガが出るレースは超満員となり、始まったばかりだった交流競走を盛り上げる立役者となった。

そして引退レースとしてドバイワールドカップへ臨むこととなったが、それはまた別のお話。

家族のこと:父の会社のCMソングを家族で合唱する

ウインディちゃんは(ワイルドな見た目からは想像がつかないけど)社長令嬢という設定です。

これは馬主の安田修氏が「新興産業株式会社」の社長を務めていたことが元ネタ。安田氏はシンコウ冠の競走馬を多数所持しているだけでなく、生産牧場シンコーファームを開設しオーナーブリーダーとしても活動していた人物。

新興産業株式会社は外壁材や屋根材を販売する会社で、小林亜星氏を起用した「パッ!とさいでりあ」というCMソングが有名です。

実在馬の情報

では実在馬としてのシンコウウインディを見ていきましょう。

登録名:シンコウウインディ(Shinko Windy)
性別:牡馬
毛色:栗毛
誕生日:1993年4月14日
登録日:1995年11月16日
抹消日:1999年10月20日

戦績

生涯成績:17戦5勝
獲得賞金:2億2744万6000円
主な勝ち鞍
・GI:フェブラリーステークス-1997年
・GIII:ユニコーンステークス-1996年
・GIII:平安ステークス-1997年

略歴

シンコウウインディはアイルランドから輸入された種牡馬デュラブの日本初年度産駒だったが、初期の評価は低いものだった。

というのも、父のデュラブは世界的種牡馬ノーザンダンサーの孫で、現役時代はイギリスを中心に芝の短距離路線で活躍し、2~3歳時に12戦4勝、重賞2勝(GI未勝利)という成績を残し種牡馬入りするも、種牡馬としては大成せず見切りをつけられるような格好で1991年に日本へと輸入された。

一方、母ローズコマンダーは現役時代には重賞勝ちこそないものの、それなりに活躍した素質馬だったが、こちらも繁殖入り後はまったく活躍馬を出せずにいた。12番仔のシンコウウインディが生まれるまでの11頭いたが、1勝のみという目も当てられないような状態。

そんな両親だけに、ウインディは血統的にはまったく期待されておらず、1994年6月に2歳馬のセリ市で購入されたのも、丈夫そうな馬体が評価された結果。うーんブラッドスポーツとは。。。

セリ市のお値段も890万と、中央競馬で走るサラブレッドとしては低評価といえる価格ですが、後の活躍を考えたらお値段以上の買い物ですが、まあこればかりは走ってみるまでは分からんよね。

そんなこんなで調教師の田中清隆の勧めを受けた安田修氏によって購入されたシンコウウインディですが、デビューに向けてトレーニングを開始するもヤンチャな性格のうえに、とにかく集中力が持続しないので、走っていてもすぐ気まぐれを起こしてサボるなど、仕上げるのがとても大変だった。

デビュー

紆余曲折がありやっとデビューした1996年1月。舞台は中山競馬場のダート1800メートルの新馬戦。

幼い頃から気まぐれで噛みつき癖のある気性で競馬になるのかと思いきや、岡部幸雄騎手を背に素質の高さを見せつけるように先行抜け出しで快勝。厩舎の方々の苦労が報われた瞬間だった。

このあとは芝のレースを3戦使われるも、4-2-4着と勝ちきれないレースが続くが、ダートに戻して臨むあさがお賞では終始4番手でレースを運び最後に抜け出して久々の勝利。

芝のレースでも掲示板を外してないし、素質の高さをうかがわせていたものの、やはりダートに適性があることを示したシンコウウインディはダート路線に進むこととなる。

6戦目となる8月29日館山特別では、中団でレースを進め最期の直線で抜け出したものの、内のダイワオーシャンを噛みつきに行き失速。生来の悪い癖が出てしまいクビ差2着に敗れる。

レースに負けはしたものの、他馬を噛みつきに行って敗れるという珍事件が話題になり、シンコウウインディの知名度が一気に広がり、競馬ファンの中に刻み込まれることとなった。

ダート三冠への挑戦

そして9月28日、同年に新設されたユニコーンステークス(GIII)に駒を進める。

今でこそジャパンダートダービーの前哨戦の位置付けのレースだが、当時の3歳ダート三冠路線の1戦目となる限定のダートの重賞競走として注目を集めていた。

中央競馬で初となる3歳限定のダート重賞競走ということで注目を集めていたが、陣営は先のことも考えて賞金を加算することを狙いで出走する。

レースでは1.5倍の1番人気バトルラインが1位入線、シンコウウインディは3馬身差を付けられた2着だったが、バトルラインが斜行により10着降着したことで順位が繰り上がり、重賞初制覇を達成した。

これは追い風が吹いているぞ、と二冠目を狙った大井のスーパーダートダービーでは、逃げるサンライフテイオーに噛みつきに行ったため失速、1馬身届かず2着。またしてもやってしまった。。。

そしてダート三冠最終戦、盛岡のダービーグランプリでは1番人気に推されるも、初の長距離輸送が響いたのか調子を崩してしまい、勝ったイシノサンデーから5馬身半差と大きく離れた3着に終わる。

それでも新設されたダート三冠レースでは、1着1回・2着と3着1回ずつという優秀な成績を残し、競馬ファンの記憶に深く刻まれることとなった。また長距離輸送などに弱い神経質な面を見せるも、2か月間の間に行われる三冠レース全てに出走したのはシンコウウインディだけというタフネスさも証明した。

明けて1997年の平安ステークス(GIII)で遅れて後手を踏むも、直線で外から猛然と追い込み、内で粘るトーヨーシアトルと並ぶようにしてゴール。結果は重賞では珍しい同着。

このレースから装着したブリンカーの効果もさることながら、体質や気性面での成長が感じられたことから、この年からGIに昇格したフェブラリーステークスに乗り込むこととなる。

初のダートGI王者

そして迎える19997年2月16日のフェブラリーステークス。この年からGIに格上げされた初のダートGIは天気は晴れたものの馬場状態は不良という道悪のコンディションのなか開催された。

1番人気はシンコウウインディと同年代のストーンステッパー。前年の根岸S(GIII)とガーネットS(GIII)を含めた4連勝で乗り込んできたこの馬が人気を集める形となった。

対してシンコウウインディはGIIIを2勝しているが、そのうち1勝は降着による繰上りということと、ダート三冠レースの格がまだ浸透していなかったことから、6番人気に甘んじていた。

そんな評価をよそに、レースでは中団外めで折り合いを付け、第4コーナーで間隙をついて最内に入る。直線で1番人気のストーンステッパーとの長く激しい叩き合いの末、クビ差競り落として勝利。あまりの気迫に鞍上の岡部騎手は「噛みつきに行くかと思った」と感じたと語るほどだった。

こうして6番人気という評価を覆し、シンコウウインディは中央競馬のダートGIの初代覇者という栄誉を手にした。

引退~第二第三の馬生

その後アンタレスステークス(GIII)、帝王賞、安田記念と転戦するも勝ちに恵まれず、脚部不安により1999年に引退

2000年にシンコーファームで種牡馬入りし第二の馬生が始まったが、2001年にオーナーの安田氏の会社が経営不振のために全ての所有馬を手放し、JRAの馬主登録を抹消するという異例の事態が発生する。このシンコーファーム解散により種付け頭数は激減。

2003年以降の種付けはなくなってしまい、シンコウウインディの種牡馬生活はわずか2年で終わってしまうが、2007年に日高町のダーレー・ジャパンに引き取られ、試乗馬(アテ馬)兼功労馬として第3の馬生がはじまった。

アテ馬というのは、繁殖牝馬の発情を確認する役目なんだけど、やはり向き不向きもあるようで興奮した牝馬に蹴られておじけづく牡馬もいるらしく、タフな馬でないと務まらないお仕事。

その点シンコウウインディは、牝馬に蹴られてもめげない性格でたくましく、外国人スタッフも「こんなに素晴らしいアテ馬は見たことがない」と絶賛していたという。

シンコウウインディは産駒が残っていないため、残念ながら血が継承されることはないけど、ダーレージャパンでけい養されているアドマイヤムーン産駒やパイロ産駒の活躍は、シンコウウインディの仕事のおかげでもある、まさに縁の下の力持ちとして引退後も影の功労馬として、日本競馬を長く支えてくれた一頭といえる。

夜明けの咆哮
木々をなぎ倒し
岩を打ち砕きながら
道を作ってきた
幾多の先人たちよ

その志を受け継いで
獰猛な獣が駆ける
凍てついた砂を
熱い咆哮で溶かしていく

いま夜は明けて
新たな時代が始まる

引用:名馬の肖像 2021年フェブラリーステークスより

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