【ウマ娘】新衣装メジロライアン実装
2023年1月30日に[MELTY GIFT]アイネスフウジンと、[マーガレット・ラッテ]メジロライアンが実装されました。今回のバレンタインも両方が強キャラという、2周年を目前にして悩ましい性能で実装してきましたね。
メジロライアン(ウマ娘)のプロフィール
ガチャを引くかはギリギリまで悩むとして、さっそく、ウマ娘のアイネスフウジンがどういうウマ娘なのか紹介していきます。
誕生日:4月11日
身長:163cm
体重:微増(筋トレ効果)
スリーサイズ:B87・W57・H86
靴のサイズ:左右ともに24.5cm
学年:高等部
所属寮:美浦寮
筋トレ大好きなスポーティー娘。名門メジロの生まれながら、名家ぶったところはなく、その性格は爽やかそのものである。
幼なじみのメジロマックイーンに引け目を感じており、本当は彼女のように速く可愛くありたいと願っている。
体は強いがハートは少し繊細。
優秀な競走ウマ娘を数多く輩出した名門メジロ家のウマ娘で、ベリーショートな髪型がトレードマークのスポ根気質のウマ娘。
同時期に衣装替えが実装されたアイネスフウジンとは寮の同室で親友で、彼女の買い出しにしばしば付き合っています。
スポーティなヘアスタイル
ウマ娘のメジロライアンはウマ娘の中でも最も髪が短くボーイッシュなヘアスタイルですが、史実のメジロライアンはたてがみの根元に夏癬(寄生虫病の一種)を発症したことがあり、それ以来たてがみを短く刈り込む処置がされました。
たてがみを短く刈り込む馬は珍しく、通称「ライアンカット」と呼ばれました。
筋トレマニア
日常的に筋トレに取り組み、筋肉を愛でる筋トレオタクなところや、快活な性格やスポーティーな面からトレセン学園内外に多くのファンがいる。特に学園内の後輩ウマ娘達からはファンクラブができるレベルで慕われている描写がありますが、実在馬のメジロライアンも500kgを超える雄大な馬体を持っており、特に女性人気が高かったといいます。メジロライアンは惜敗が続きながらもなお底の見えない魅力を秘めており、出走すると必ず上位人気に推されていました。
メジロ家の一員・マックイーンとの関係
ウマ娘のメジロライアンは名門「メジロ家」の一員であり、メジロマックイーン、メジロパーマー、メジロブライトやメジロドーベルとは幼馴染という設定です。名門メジロ家を背負って立つ覚悟で気高さと強さを兼ね備えるマックイーンに対して尊敬の念を抱くと同時に引け目も感じています。
しかし史実ではメジロライアンとメジロマックイーン・メジロパーマーは同じ1987年に生まれの同世代でしたが、早い時期から注目の的だったのはライアンの方で、菊花賞でのライアンvsマックイーンでも「メジロでもマックイーンの方だ!」という実況に象徴されるように、マックイーンは遅れを取る立場でした。
メジロマックイーンへの劣等感
上述の通り、完全無欠のお嬢様マックイーンが尊敬の対象でありつつも、マックイーンに対する劣等感はライアンの人格形成に悪い意味で大きな影響を及ぼしてしまっており、鍛え上げた身体にメンタルが追いついていない状態からか、トレーナーの前では卑屈になる場面もしばしば見受けられ、可愛い服やアクセサリーは自分には似合わないと、身に着ける勇気を持てないでいます。
そのため新衣装実装と同時に開催された『スイートメモリー・ティータイム』のイベントストーリーでは、中盤までは頭の花飾りは訳あって付けていないため、ウマ娘では珍しい「途中まで髪型が通常と同じままの新衣装」だったりします。
しかしライアンの劣等感は事実に即していない、いわゆる本人の思い込みで、メジロマックイーンは「ライアンは自身を信じてないからこそ徹底的に身体を鍛えて証明してきた」と評しており、マックイーンがライアンを最も評価しているのが伺えるエピソードがあります。
メジロ家の一員・ドーベルとブライトとの関係
同じメジロ家の幼馴染にメジロドーベルとメジロブライトもおり、それぞれのゲーム内イベントではライアンとの会話シーンが多々あり、ドーベルに対してはたまにライアンが父親目線っぽくなることがあったり、ブライトは幼少期からしばしば面倒を見られていたために「ライアンお姉さま」と彼女を呼んでいるなど、血のつながりを感じさせる内容があります。
史実では、メジロドーベルは父メジロライアン、母メジロビューティー、メジロブライトは父メジロライアン、母レールデュタン(母父マルゼンスキー)となっており、共にライアンの初年度(1994年)産駒のため、同期として他のメジロ家のウマ娘にはない関係を感じさせる部分もあります。
実在馬の情報
では実在馬としてのメジロライアンを見ていきましょう。
性別:牡馬
毛色:鹿毛
誕生日:1987年4月11日
登録日:1989年4月6日
抹消日:1992年10月25日
戦績
生涯成績:19戦7勝
獲得賞金:4億9204万400円
主な勝ち鞍
・GI:宝塚記念-1991年
・GII:弥生賞-1990年
・GII:京都新聞杯-1990年
・GII:日経賞-1992年
略歴
メジロライアンはノーザンテーストの初年度産駒アンバーシャダイを父に持ち、近親に天皇賞(秋)優勝馬メジロティターン(メジロマックイーンの父)などがいたことから期待され、かつ脚長で幅のある立派な馬体をしており、1987年生産馬の中でも特に高い評価を受けていた。幼名は「輝光」
メジロ牧場が所有し、冠名の「メジロ」に、メジャーリーグベースボールの通算最多奪三振投手のノーラン・ライアンから「ライアン」を組み合わせた「メジロライアン」と命名されました。
メジロアルダンを管理する奥平真治調教師が管理することになりましたが、非常に見栄えが良かったメジロアルダンと比較すると、首や脚が太く垢抜けない馬であると感じ、評価が高くなかったといいます。
ちなみに同じメジロの冠名でも馬主の名義が微妙に異なっており、その違いはウマ娘の勝負服のデザインにも反映されています。
メジロライアン、メジロパーマー、メジロアルダン、メジロブライト、メジロラモーヌ
勝負服の柄は「白、緑一本輪、袖緑縦縞」なので、袖に「緑の縦縞」が反映されたデザインになっています。
メジロ商事株式会社の所有馬
マックイーン、メジロドーベル
勝負服の柄は「白、緑一本輪、緑袖」なので、袖に特徴がなく「緑一本輪」が反映されたデザインになっています。
デビュー
メジロライアンは1989年7月9日、函館競馬場の新馬戦(芝1200m)に柏崎騎手が騎乗してデビューしましたが、道中でぜんぜん真っ直ぐ走れなかったものの、0.1秒差の2着。手ごたえを感じた陣営は函館滞在中に勝ち上がろうと中1週で2戦目に挑むも、馬体重がガクッと落ちたせいか6着に敗れてしまいます。
夏競馬中の勝ち上がりを目指そうと3戦目もに挑もうとするも、骨膜炎を発症し2か月近い休養を余儀なくされてしまいます。
しかしこの休養が功を奏したのか、馬体がみるみる良化していき、同年10月29日、京都競馬場で復帰。鞍上には奥平師の甥にあたり、当時デビュー4年目の見習騎手だった横山典弘を起用するも3着。斜行し前を行くノースヒルオーとワンダーアティナに合計4馬身つけられる完敗でした。
馬体は良くなっているのにスタートするとフラフラ真っ直ぐ走れず続くイマイチ勝ちきれない、そこで4戦目となる11月18日の未勝利戦では後方待機策をとると、直線だけを使って前にいた馬をすべて差し切り、4戦目で初勝利を挙げました。
続く葉牡丹賞では安田騎手に乗り替わりますが、この時もメジロライアンは中団の前目に着けていたせいか、3角から4角ではポジションが下がってしまい直線では末脚が不発。まったく良いところのない5着となってしまいますが、次走で横山典騎手に手綱が戻り、年内最後のレースひいらぎ賞に挑むと再び後方待機策をとり、最期の直線だけで12番手から一気に差し切って2勝目。
余勢を駆って年明け1月20日のジュニアカップでも小頭数ながら、最速の上り使って3勝目。いよいよ勝ちパターンを掴んだメジロライアンと横山典騎手はクラシック制覇に向け、弥生賞へコマを進めます。
クラシック戦線~アイネスフウジンとの対決
これまで2戦目以降の休養期間以降は中2週ペースで出走してきたメジロライアンでしたが、クラシック戦線ともなれば、今までのようなローテで勝てるほど甘くはない。まずは皐月賞トライアル弥生賞に向けてじっくり乗り込んでいくことになります。
そして弥生賞当日、メジロライアンは単勝オッズ5.7倍の2番人気。1番人気は前年のJRA賞最優秀3歳牡馬を受賞し、単枠指定制度の対象となったアイネスフウジンが単勝オッズ1.9倍の圧倒的支持を受けていた。
通常2強とかであれば、2番人気でも3倍台に落ち着くもんですが、2番人気のライアンが5倍台というのは、アイネスフウジンの圧倒的人気がうかがえます。
とまあ下馬評ではワンサイドな様相でしたが、前日まで降り続いた雨により不良馬場での開催となったことがメジロライアンに有利に働く。
スタートからアイネスフウジンが単独で逃げる中、メジロライアンは14頭中11番手の後方に控える。お互いがお互いのレースをできていましたが、終盤に差し掛かり馬場の悪い内側を嫌って外に進路を取るアイネスフウジンに対して、メジロライアンは荒れた馬場もお構いなしで追い上げ、5番手まで迫ってくる。直線では馬群から抜け出すと、アイネスフウジンを残り200メートル地点で内からかわして勝利。外から追い込んだホワイトストーン、ツルマルミマタオーの追撃をかわし、ついに重賞初勝利と皐月賞の優先出走権を獲得しました。
皐月賞
こうして皐月賞の優先出走権を獲得したメジロライアンは4月15日の皐月賞に挑みます。待ち受けるのは4.1倍の1番人気・アイネスフウジンと、5.6倍の3番人気には国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となったハイセイコー産駒のハクタイセイ。メジロライアンは5.0倍の2番人気と3この3頭が人気を分け合う形となりました。
レースでは逃げ宣言をしていたアイネスフウジンが、スタート直後に隣の馬に寄られる不利を受けて逃げることができず2番手を追走。メジロライアンは直線の要所で進路を失う不利を受け、大外に持ち出してから追い込んだものの、先行するアイネスフウジン、好位で早めに抜け出したハクタイセイに届かず、2着のアイネスフウジンに1と4分の3馬身遅れた3着に終わってしまいます。
歴史的日本ダービー
5月27日の東京優駿こと日本ダービーでは、メジロライアンは単勝オッズ3.5倍の1番人気に支持されます。
皐月賞で先着されたハクタイセイが3.9倍の2番人気、アイネスフウジンが5.3倍の3番人気と、何で負けたメジロライアンが1番人気になるのか?というと、皐月賞後のインタビューで、勝利したハクタイセイ陣営の布施正調教師は、次戦の東京優駿についてアイネスフウジン以上にメジロライアンが強敵とコメントしていました。
確かに皐月賞では道中進路を失う不利があったことと、最後の脚色ではメジロライアンが勝っており、あと少し距離が長ければ差し切れていたのではないか?といった理由から、皐月賞の中山競馬場より広く、最期の直線も400m長い日本ダービーでは評価が逆転したのではないかと考えられます。
史上最多入場者数の19万6517人が見守る中、日本ダービーのゲートが開く。スタートからアイネスフウジンが逃げ、ハクタイセイが2番手追走、メジロライアンは中団後ろの11番手に位置という3頭ともお決まりの展開。アイネスフウジンがミドルペースで逃げる中、メジロライアンは第3コーナーから外に持ち出して追い上げを開始した。
直線では単騎で逃げるアイネスフウジンに2番手追走のハクタイセイ、メジロライアンは6番手まで位置を上げてきて勝負は最後の追い比べと持ち込まれた。メジロライアンは上がり3ハロン35.6秒という末脚でもって迫ったが、道中馬場の良いところを走り、最後の直線を踏ん張る余力を残していたアイネスフウジンに1と4分の1馬身およばず2着。
なおアイネスフウジンはその余力もすべて使い切り、ゴール後は躓いたりするなど向こう正面から退出することができず、スタンド前から退出することとなる。その結果レコード勝利を飾った馬と騎手を19万人の観客が迎え入れるウイニングランのような形となり、観客が「ナカノ・コール」始めたことから、勝利した馬や騎手をコールで称える文化が生まれました。
菊花賞へ向けて~メジロマックイーンとの対決
ダービー後は休養をはさんで8月の函館記念を目指して函館競馬場に入厩したが、調整中に脚を捻って出走を回避。10月14日、菊花賞のトライアル競走である京都新聞杯で始動に変更となった。レースでは単勝オッズ2.7倍の1番人気に推され、余力すら感じさせる手応えで差し切り勝ち。これで重賞2勝目を挙げた。なお2分12秒3で走破し、重馬場ながらコースレコードを更新した。
トライアルを快勝して挑む11月4日の菊花賞(GI)。ここでは皐月賞、東京優駿で先着されたハクタイセイ、アイネスフウジンはともに故障により戦線離脱しており、メジロライアンが菊花賞の最有力馬と捉えられて、当日は単枠指定が適用される。
そしてここで同じメジロ冠の馬、遅れてきたメジロマックイーンとの対決となる。
メジロライアンが弥生賞を勝った時点で、マックイーンはまだ2戦1勝の500万下の条件馬。菊花賞直前で7戦とキャリアを積んでいたが、まだ1500万下(現在の3勝クラス)でオープン馬にもなっておらず、菊花賞も出走回避した馬が出たため繰上りでの出走となった。
この時メジロライアンは2.2倍の1番人気。2番人気のホワイトストーンは5.4倍でメジロマックイーンは7.8倍の4番人気だった。誰しもがライアンの勝利を疑わなかった・・・ただ一人を除いては。
メジロライアンはスタートから後方に位置、1周目の直線で中団の後方8番手あたりに位置を上げた。2周目は中団の外に持ち出して、徐々に追い上げを開始。直線では先に抜け出していたメジロマックイーンを目指して、外から追い込んだが、差し切るどころかメジロマックイーンに突き放され、2馬身半以上離された3着。
まさかの敗戦となったメジロライアンだが、奥平師によれば競走前の調教でメジロライアンが、当時格下だったメジロマックイーンに先着することができなかったことから「菊花賞で負けるとすればマックイーンだろう」と予感していたという。
おそらくこのエピソードが、ウマ娘のメジロライアンがメジロマックイーンに対して引け目を感じている関係の元ネタなのではないかと考えられます。
菊花賞の時点でマックイーンは4着以下になったことがなく3着ですら1回と、それ以外は全て連対しているほぼパーフェクト、ライアンも7戦でオープン勝ちしているので、マックイーンよりは出世のスピードは速いんですけどね。
こうしてメジロライアンのクラシック戦線は、すべて3着以内となり、かつ無冠。これは、1964年のウメノチカラ(シンザンが三冠を達成した年)以来の出来事でした。
有馬記念~復活のオグリキャップ
ファン投票4位(11万6982票)で12月23日の有馬記念(GI)に出走する。
当日は、菊花賞で2着となったホワイトストーンが単勝オッズ3.3倍の1番人気、屈腱炎明け2戦目で天皇賞(秋)2着になった同じ奥平厩舎のメジロアルダンが4.2倍の2番人気、メジロライアンは4.7倍の3番人気となった。
メジロ牧場の「ライアンに勝たせたい」という意向を汲んだ池江泰郎調教師がメジロマックイーン(ファン投票16位)を回避させ、同厩舎のメジロアルダンを出走させるなど、万全のバックアップ体制を敷いていた。
しかし、引退レースを宣言した怪物オグリキャップが劇的な復活を遂げる。秋シーズンは天皇賞(秋)を6着、ジャパンカップを11着と惨敗。限界説も囁かれ「もう負けるオグリは見たくない」「オグリは終わった」とまで言われた矢先の復活でした。
レースはオサイチジョージがスローペースで逃げる中、最終コーナーでオグリキャップがオサイチジョージをかわして先に抜け出していた。中団に位置していたメジロライアンは直線でオグリキャップを追ったが、4分の3馬身敵わずの2着。その差0.1秒差。
第二次競馬ブームの中心的存在である、オグリキャップの奇跡の復活という衝撃的な出来事に屈する形となってしまった、横山騎手は「きっちり差せると思ったけど、オグリの底力の方が上だった」とオグリキャップの実力を認めるコメントを残していますが、内心は相当悔しかったと思います。
ちなみにウマ娘では、有馬記念でオグリキャップに勝つと「ベレー帽の紳士」が登場しますが、元ネタは競馬評論家の大川慶次郎氏と思われます。
実際にもこの有馬記念では、大川慶次郎氏はフジテレビの解説席に座っており、メジロライアンを本命馬に推していた。そして最期の直線では実況のアナウンサーが「オグリオグリ」と絶叫する際中、突然「りゃいあん!」と叫び始めた。それも実況のマイクにも拾われるくらい大きな声だったため、後に自分の本命馬が来たから叫んだのか?実況のアナウンサーがオグリに集中しすぎているので、外からライアンが来ていることを教えようとしたのか?と議論になりました。
このときの大川慶次郎氏の本命がメジロライアンであったため、ウマ娘のライアンが勝ったときにこういった出来事のオマージュとして登場と思われます。(ちなみに大川氏が愛用していたのは、ベレー帽ではなくハンチング帽なんですけどね)
ただ単に予想が上手という訳ではなく、(ギャンブルとしての)競馬ではなく「(動物の)馬」が好きであり、馬の体型を一目見ただけで他の予想家や競馬記者が気づかなかった体調や故障、先天的障害を言い当てたなど、神様の異名に相応しい方だと思います。また競馬マスコミにおいて競馬関係者を批判することをタブー視する風潮がある中で、関係者を公然と批判することができる数少ない人物でした。
「新三強」結成
1991年は3月10日の中山記念(GII)から始動。スローペースで逃げたユキノサンライズを捉えきれず2着。
後方脚質の馬はスローペースの展開だと、前に行く馬がスタミナを残して失速しないため、差し切れないことが多い。メジロライアンが負けるのもこの展開によるものが多くありました。
続いて4月28日の天皇賞(春)(GI)に出走。メジロライアンに加え、メジロマックイーンとホワイトストーンも単枠指定制度の対象となり、史上2例目の単枠3頭となったことから、前年までイナリワン、オグリキャップ、スーパークリークが形成した平成三強になぞらえて「新三強」と呼ばれた。
レースでは最内枠から発走し後方に位置。メジロマックイーンが好位からスムーズに進路を確保する一方、メジロライアンは馬群から抜け出せずに追い出しが遅れてしまう。直線では既にメジロマックイーンが抜け出していて届かず4着。2位争いも7番人気ミスターアダムスと12番人気オースミシャダイにも先着されてしまいます。
メジロパーマーが逃げてスローペースを作り、メジロマックイーンが5、6番手、メジロライアンは後方から数えて3~4番手と、前述の通りライアンの脚質に不利な展開でした。
例えば、断トツの1番人気と単勝万馬券レベルの馬が同じ枠だったとして、1番人気が取り消ししちゃったら、単勝万馬券の馬が2着以内に来てくれないと枠連馬券が当たらない。
もし!万が一!奇跡的に馬券に絡んでも、断トツ1番人気の馬に投票されたオッズでの払い戻しになってしまう。
このように同枠に他馬が残っている場合、残った馬が馬券に絡む可能性があるため馬券の返還を行うことができないので、JRAがとった解決策が強い馬を1頭の枠に固定(つまり単枠指定)すれば、その馬が除外になったらすぐに返還できるんじゃない?という制度が採用された。
ちなみに1973年の日本ダービーでハイセイコーが66.7%の単勝支持率を出したのが導入のきっかけとなり、以降「単勝支持率が30%」を超えることが推測され、投票人気が特に集中すると判断した出走馬に対し適用される。ウマ娘ではミスターシービー・シンボリルドルフ・オグリキャップ・タマモクロス・メジロライアン・メジロマックイーンがそれぞれ指定された事例がある。※番外編としてディクタストライカ(サッカーボーイ)・リオナタール(レオダーバン)も単枠指定された経験がある。
1991年10月5日に馬番連勝複式(馬連)が導入され、単枠指定制度は廃止となったため、1991年9月22日のセントライト記念に出走したレオダーバンが最後の単枠指定適用馬となる。
宝塚記念・悲願のG1制覇
6月9日、阪神競馬場が改修工事のため京都競馬場で代替された宝塚記念(GI)に出走。「新三強」が再び揃ったが、メジロマックイーンだけが単枠指定制度の対象となり単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持され、メジロライアンとホワイトストーンはオッズ4倍台にとどまった。
スタートから中団で1周目のゴール板を通過。第1コーナーから2コーナーにかけて、メジロライアンは他の馬と接触し行きたがる仕草を見せたが、横山はそれを妨げず位置を上げさせ、向こう正面は3番手で追走する、これまでにない作戦のレース運びをした。
第3コーナー坂の下りで逃げるイイデサターンや、2番手のホワイトストーンに並びかけてかわし、最終コーナーを単独先頭で通過。直線では馬場の悪い内側を避けて外を回り、後続を突き放しにかかった。大外から追い込むメジロマックイーンに1馬身半差をつけて先頭で入線、GI6度目の出走で初勝利となった。
このとき2着にメジロマックイーンが入り、1971年の優勝馬メジロムサシ、2着メジロアサマ以来20年ぶりとなるメジロ系列による1着2着独占となった。ウマ娘の中でもマックイーンとライアンがメジロのおばあ様(メジロアサマという説あり)と絡みが強いのは、こういった縁があるからなのかもしれませんね。
ちなみに横山騎手にとっては、父の横山富雄氏が前出のメジロムサシに騎乗して勝利を挙げており、父子二代宝塚記念優勝を成し遂げています。
最期の勝利、そして引退
宝塚記念を勝った後、夏の休養中に右前脚の屈腱炎を発症してしまい、長期休養することになる。
暮れの有馬記念が復帰戦となったメジロライアンはファン投票11万4216票を集めて4位に推され、昨年のリベンジと意気込むも12着と惨敗。翌1992年1月のアメリカジョッキークラブカップ(GII)でも6着となり連敗してしまう。
そして3月22日、重馬場で行われた日経賞(GII)で重賞4勝目、10カ月ぶりの勝利を挙げる。メジロライアンは中団から、位置を上げながら追走し、最終コーナーを先頭で通過し直線に入ると内側に進路をり馬場状態の悪さをものともせず、後方に2馬身半差をつける圧勝。そしてこの勝利がメジロライアン現役最後の勝利となる。
その後は屈腱炎が再発し、休養から復帰することなく競走馬を引退。
天皇賞(秋)を目指すも叶うことはありませんでした。
逆風の種牡馬生活
メジロ牧場はメジロライアンの種牡馬入りに、シンジケートの組織を計画したが、勝ちきれなかった競走馬時代の印象に加え、「内国産の二代目は種牡馬として成功しない」という通説から会員が集まらなかった。
ほんの数年前に内国産の二代目タマモクロスが、そしてオグリキャップと一緒に「葦毛は走らない」という通説をひっくり返されているのに、評価は上がらないのは残念なところですが、まあバブル崩壊した時代で日本全体が不景気という背景もあり、多額のお金がかかる馬主業としては致し方ないところではありますね。
しかし、1996年に初年度産駒がデビューすると、12月にメジロドーベルが阪神3歳牝馬ステークス(GI)に優勝して産駒初GI勝利。さらにはメジロブライトがラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII)に勝利、エアガッツも3勝を挙げるといった活躍を見せ、内国産馬として七冠馬シンボリルドルフ以来6年ぶりに新種牡馬ランキングの首位を獲得。3歳総合ランキングでもブライアンズタイムに次ぐ2位を記録し、それまでの通説を一気にひっくり返しました。やったね!
親孝行な産駒たちの活躍で60万円まで下落していた種付け料は613万まで一気に上がる。これは1997年春に行われた種付け株の競り市で、当年の内国産種牡馬最高額でした。
メジロドーベルとメジロブライトは翌年以降も活躍を続け、最終的にメジロドーベルは牝馬として当時最多のGI競走5勝、メジロブライトは1998年にメジロライアンが勝てなかった天皇賞(春)を制した。産駒からのGI優勝馬はこの2頭のみとなったが、重賞勝利馬は以降もコンスタントに輩出し、メジロライアンは内国産の有力種牡馬としての地位を確立することとなりました。
そして1999年にメジロドーベルが引退、そして翌2000年にはメジロブライトが引退した。
2000年の「Dream Horses 2000」というJRAのキャンペーンでは、競馬ファンからの投票で20世紀に活躍した競走馬を100頭選定する企画「20世紀の名馬」が行われ、メジロライアンは51位にランクインしました。
いかがでしたでしょうか?
勝ちきれず「無冠の最強馬」と呼ばれながらも、着実に成績を残しメジロ牧場を支えた功労馬。記録にも残りましたがそれ以上に記憶に残るそんな馬だったのではないかと思います。