スーパークリークは1985年、北海道門別町の柏台牧場に生まれる。
柏台牧場は競走馬生産が本業ではなかったが、経営者の相馬氏と同じ静内でビッグレッドファームを経営する岡田繁幸氏が親しく、岡田氏が配合のアドバイザー役を担っていたこともあり、87年の宝塚記念などを制したスズパレードなどそこそこ良い馬を生産していた。
相馬氏は菊花賞、天皇賞向きのステイヤーにこだわりがあり、当時流行のスピード血統には見向きもせず、岡田氏が提案したノーアテンションとナイスデイの配合。
父ノーアテンションは、主な勝ち鞍は長距離の準重賞2勝と障害の2勝という、競走成績だけを取るなら二流といっていいくらいの馬。
さらに母ナイスデイの父インターメゾは英セントレジャー優勝馬でグリーングラス(菊花賞、天皇賞・春)が代表産駒。祖母方はガチガチのスタミナ血脈という、お世辞にも流行とはいえ無い配合から産まれたのが後にスーパークリークと名付けられる馬であった。
しかもこの馬、時代遅れと言える配合の上、左前肢が外向きに少し曲がっているという、競走馬としては大きな欠点を抱えており、当歳夏の競りでは買い手がつかず主取りとなり、2歳夏の競りでも買い手がつかない。
そんな仔馬を気にかけていた一人の調教師がいた。
その調教師の名は伊藤修司氏。皐月賞馬マーチスや桜花賞馬であるヒデコトブキ、ハギノトップレディを育て上げた実績があり、とくにハギノトップレディは同じく前肢に問題を抱えた馬だった。
伊藤氏は「歩かせてみると良い動きをする。脚に難はあるがなんとかモノにできないものか。これぐらいならなんとかなるはず」とにらんでおり、このまま競走馬としてデビューできない事を惜しんで、まだ馬主資格を取って間もない木倉誠氏に購入を持ちかけた。
この木倉氏は生産者の相馬氏とも旧知の間柄だったこともあり、2歳秋の競りでようやく買い手が見つかったのであった。
とまあ、そんなこんなで首の皮一枚繋がって買い手が見つかったスーパークリークは、当時の価格で810万円とバブルの時代としては非常に安いお値段。
しかし多くのG1馬を育て上げた伊藤氏の相馬眼をもってしても、この安いお値段の仔馬の後の大活躍、ましてや空前のブームとなるゲームで美少女化されて走ることになるであろう事は見抜けなかった(当たり前か)
購入した木倉氏は「最初は小川(クリーク)でも、やがては大河に」という思いを込めて。「スーパークリーク」と名付けられた。
どうにかこうにか馬主と調教師がついたスーパークリーク、いざデビュー戦と当時3歳夏の函館に乗り込んだが、激しい下痢を起こして仕上がりが遅れ、デビュー戦は暮れの阪神までずれ込んでしまった。
ちなみにスーパークリークは生来おっとりした性格で、これまで病気一つせずスクスクと成長していたが、自然豊かな環境に居すぎたためか、函館競馬場のような環境の変化が非常にストレスになったのではないかと言われている。
調教師ですら想定していなかったハプニングを乗り越え、ようやくデビューした1987年12月5日。距離適性を考慮して芝2000m。鞍上は当時関西のトップジョッキー田原成貴騎手だったことから、期待の大きさがうかがえる。
レースはスタート直後に3番手の好位につけるも、内にもたれまくって田原騎手の腕を持ってしてもロクに追う事もできず、とはいえ0.1秒差の2着で惜敗。
そして中2週で臨んだ2戦目。前半は後方に控え、コーナーからスパートをかける戦法に切り替えた。
直線でももたれる癖があるも豪快な指し切り勝ち。わずか1回乗っただけで乗り方を修正して勝たせるあたり、関西トップジョッキーの名は伊達じゃない。田原騎手はスーパークリークのパフォーマンスに、「先々は大きな働きができるかもしれない」と褒めちぎったほど。
そしてこのレースで運命的な出会いとなる騎手がいた。それが2着の馬に乗っていた武豊騎手。
このとき武豊騎手は「ほとんど勝っていたレース、3歳馬とは思えない脚で差されてしまった、ああいう馬がクラシックに行くんでしょうね。」とうらやましそうに語ったという。
そして明け4歳となり、福寿草特別、きさらぎ賞(G3)では武豊騎乗のマイネルフリッセに破れるも、のすみれ賞でコンビを組むこととなった。一度で良いから乗ってみたかった武豊は喜んだが、またがってみて明らかに右前肢を気にしたそぶりに不安になった。
その不安は的中した。レースには勝ったものの、痛がっていた脚とは反対の左前肢を骨折し、半年間の休養を余儀なくされてしまった。スーパークリークはどんなレースでも内面の苦しさを表に出さない馬だった。痛む右とは逆側の左前肢を故障してしまったのだった。
これには武豊騎手も調教師の伊藤氏も、スーパークリークでダービーをと考えていただけにショックだった。
それに追い打ちをかけるように武豊騎手は皐月賞のマイネルフリッセを皮切りに、二度の調教停止をくらい、当年のリーディング争いから完全に離脱。初めて味わう苦い体験を克服するべく、福永洋一騎手が同じ境遇になったときに夏の北海道で克服したことに倣って、その年の夏は函館に向かった。
函館で知らない馬、知らない騎手、騎乗依頼も無いゼロベースでの厳しい環境の中、2桁の勝ち星をつかみ取るという活躍をみせた。
そして骨折を完治したスーパークリークと再会。調教に武豊騎手が騎乗し、秋へ向けて始動するのであった。
(続く)
コメント